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内藤新宿 [岡場所・宿場・盛り場]

内藤新宿は甲州街道に存在した宿場で、江戸日本橋から数えて最初の宿場になる。
開府当初は高井戸が最初の宿場であったが、他(品川、千住、板橋)に比べ遠く、非常に不便であった。
そんな中、江戸の名主、商人らの運動により元禄12(1699)年、新たに開設された。
その後、享保3(1718)年、幕府によって廃止されるが、明和9(1772)年、54年ぶりに再開され、幕末まで存在した。

詳細はこちらから(Wiki)>>>

011_内藤新宿_01.jpg
街は上町、仲町、下町と3区画に別れ、中央を甲州街道が通り、追分(新宿三丁目交差点)で分かれ、西が青梅街道、南が甲州街道となる。

内藤新宿模型(新宿区立新宿歴史博物館)
011_内藤新宿_02.jpg

アクセス:東京メトロ、都営地下鉄 新宿3丁目又は新宿御苑前下車
Yahoo!ワイワイマップ大江戸八百八町『内藤新宿』へ>>>

010_町奉行所 [幕府関連の役所その他施設]

江戸市中の治安・司法を預かる町奉行所の変遷をみてみる。
江戸開府当初は決まった役宅も無く、任命された者が自邸に白洲を造り、執務や裁判を行っていたが、寛永8(1631)年、堀式部少輔直之と加々爪民部少輔忠澄が町奉行に任じられて以来、役宅としての町奉行所が整ったと考えられる。

その後は場所の移動、追加、名称変更などめまぐるしく行われ維新を迎えた。文章ではなかなか理解しにくい(私がイマイチ呑み込めて無い)ので、時代ごとに地図で説明する。

①寛永8(1631)年~元禄11(1698)年まで
北町奉行所-常盤橋御門内  南町奉行所-呉服橋御門内
01_元禄11まで.jpg

②元禄11(1698)年
南(以下南、北と略す)が鍛冶橋御門内に移転
02_元禄11.jpg

③元禄15(1701)年
呉服橋御門と鍛冶橋御門の中間に中町奉行所新設 これより三奉行所体制となる。
03_元禄15.jpg

④宝永4(1707)年
北が数寄屋橋御門内に移転。これにより、北が一番南に位置するという変な状態になった。
04_宝永4.jpg

⑤享保2(1717)年
中が常盤橋御門内(旧北の場所)へ移転。大岡忠相北町奉行に就任。
05_享保2.jpg

⑥享保4(1719)年
鍛冶橋御門内の南を廃止し、数寄屋橋御門内の北を南に改称。この時点で大岡忠相は南町奉行となる。
常盤橋御門内の中を北に改称。同時に中は廃止となり、元の二奉行所体制の戻る。
06_享保4.jpg

⑦文化3(1806)年
北が呉服橋御門内に移転。場所は以前南のあった位置より若干南側。
07_文化3.jpg
この後は維新まで現状のまま存続する。

蛇足だが
⑧天保11(1840)年
遠山景元北町奉行に就任

⑨弘化2(1845)年
遠山景元南町奉行に就任

アクセス:JR東京駅で降りれば全て徒歩範囲!

009_弾左衛門囲内 [お江戸のランドマーク]

江戸の長吏頭 矢野弾左衛門は徳川幕府より関東全域の被差別民(長吏・猿飼・非人等)支配のお墨付きをもらい、府内の長吏・猿飼(猿回し)とともにこの場所に住んだ。
ただ最初からこの場所ではなく、江戸初期は日本橋尼店(あまだな。現在の日本橋室町辺り)、その後、町域の拡大により浅草御門外の鳥越に、最終的には1645年(正保2)山谷堀の北、浅草新町(現、台東区今戸周辺)に移転し明治維新まで存在した。

まず尾張屋版の地図でその場所を見てみる。
浅草新町_01.jpg
右上の白く細長い部分になるが、地図上には細かな記載が全く無く、ある種「隔離」された地域であることが予想できる。

現在の地図では以下の場所になる。
浅草新町_02.jpg

ではこの中がどのようになっていたのか全くつかめなかったが、浦本誉至史(うらもとよしふみ)著『江戸・東京の被差別部落の歴史』に以下の図が載っていたので紹介する。(右が北)
浅草新町_04.jpg
これによると、周囲を溝(水路)で囲まれ、中央に南北を貫く太い道路があり、南側の山谷堀に面して表門、反対側に北門を開け付随して番所が設けられている。それ以外、東西に今戸、吉野町の2箇所の出入り口があるのがわかる。中央には白山社があり、南の表門付近には弾左衛門屋敷(新町役所)がある。また町域は南から上町、中町、下町と区分けされていた。

ではこの図を元に、周辺も含め現在の地図に落とし込んでみる。
浅草新町_03.jpg
囲内中央を貫く道路は「往来」と呼ばれるメインストリート。この道路は現在の都立浅草高校東の道路で、位置的にもピッタシと一致する。また吉野町口を出て北に向かい寺の間を抜ける道路も現在と一致する。
関東大震災、東京大空襲を経ても当時の町割りが残っているのは非常に喜ばしい事だ。
弾左衛門屋敷は現在の都立浅草高校の北側辺りになる。屋敷の向いには配下の被差別民や非人を収容する新町牢(牢獄)があった。正確な規模や場所が不明のため今回は割愛する。

さて「隔離された地域」と前述したが、実際には一般町人の出入りも自由で、物売り、行商などかなり頻繁に出入りしていたようだ。また毎年9月20日頃に行われる白山社の祭礼はかなり大規模なもので、長吏・猿飼・非人たちだけでなく一般町人の見物客も多かったとされている。

次にここを統治していた弾左衛門の屋敷について紹介する。
弾左衛門屋敷の敷地面積は約740坪。図でもお分かりのように往来に面して東側に門を設け、西側には庭がある。また所々に蔵もあるのがわかる。
ここが歴代弾左衛門の私邸でもあり、全関東の被差別民支配のための役所(新町役所)でもあった。
少し見にくいが、読み取れるものは自信を持って、そうでないものは予想で注釈をつけてみた。間違いはご容赦願いたい。浅草新町_05.jpg
表門 玄関 役所部分と思われる お白洲か? 書院(多分公的な儀式等で使用)
以上が役所スペースと思われる。これ以降が私的なスペースだろう。
上段之間(右に床間のようなものが付属している。多分一番格式の高い部屋であろう。)
寝間 茶の間 座敷(と読める) 上から下へ十畳、六畳、六畳 上から六畳、六畳、十畳(奥向と思われる) 湯室と読めるが湯殿だろうか? 女中部屋(右隣も同じだろう) 中庭 台所 通用門(門を入るとすぐ台所。とても自然だ) 板敷廊下(北の端は厠だろう) 庭 亀岡八幡

以上が弾左衛門囲内の概要である。

明治維新後のことについては、各自でお調べ願います。

アクセス:東武鉄道及び東京メトロ浅草駅下車
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008_おいてけ堀 [お江戸のランドマーク]

小学生の頃(昭和40年代前半)、映画『妖怪百物語』というのを観た。
浪人(だったと思う)が池で釣りをし結構釣れたので帰ろうとしたら、何処からか「置いてけ~ 置いてけ~」と不気味な声がした。浪人は気にせず家へ帰ったが、その夜、女房の首がろくろ首になって家の中をあっちこっち動き回ったってシーンがあった。正直怖かったのを覚えている。

さて『おいてけ堀』について調べたところ江戸の各地にあったようだが、今回亀戸にて発見したので公開する。果たしてどこまで信憑性があるやら・・・・・

置いてけ堀の詳細はこちらから(Wiki)>>>

当時の地図に見る置いてけ堀
008_おいてけ堀_02.jpg

現在
008_おいてけ堀.jpg

アクセス:JR亀戸駅下車
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007_田村右京大夫上屋敷 [大名屋敷]

浅野内匠頭終焉の地として有名。5万石の大名でありながら内匠頭はこの屋敷の庭先にて切腹して果てた。
広さは3,440坪余
現在は環状2号線の工事現場となっている。地下を通るということかな?

【田村建顕】
奥州一関藩3万石の初代藩主で内匠頭切腹時の当主。官位官職は従五位下 右京大夫。
出は仙台伊達家の流れだが、五代綱吉の寵愛を受け「譜代格」となったようだ。
詳細はこちらから(Wiki)>>>

007_田村右京太夫上屋敷.jpg

アクセス:JR新橋駅下車
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006_青山大膳亮下屋敷 [大名屋敷]

青山霊園の由来はこの地に美濃郡上藩青山家の屋敷があったことは殆どの方がご存知だと思うが、その広さは外苑東通りをも越えた辺りまであり、105,704坪余りとなっている。

006_青山大膳亮下屋敷.jpg

アクセス:東京メトロ千代田線乃木坂駅下車
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005_采女ケ原馬場 [馬場]

采女ヶ原の由来は、江戸前期に松平采女正の屋敷があり、享保9年(1724)の大火で焼けたあと火除地となり、采女ケ原と呼ばれたことによるものらしい

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アクセス:東京メトロ、都営地下鉄東銀座駅下車
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004_鎧之渡し [渡し]

鎧の渡しは、江戸元禄年間以来の地図や地誌類にも記される渡し場で、明治5年(1872)に鎧橋が架けられるまで存続。
当時の道路は現在より狭く証券取引所側に寄っていたため、渡し舟も現在の橋より若干北側を航行していたようだ

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アクセス:東京メトロ東西線茅場町駅下車
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003_松平肥後守上屋敷 [大名屋敷]

今年(2013年)のNHK大河ドラマに登場する会津松平家の上屋敷がここ。南側が実際に藩邸のあった場所で広さは9,150坪余。北側は預り地で2,728坪余になる。

会津松平家は寛永20年(1643)、藩祖保科正之が3万石加増の23万石にて出羽山形より入国し成立した。正之は将軍家光の異母弟で、家光亡き後、四代将軍家綱の輔佐役(大政参与)として幕閣の重きをなし、文治政治を推し進めた。
正之の没後、三代藩主正容の時代に姓を松平に改めて葵紋の使用も許され、名実共に徳川一門としての会津松平家が誕生した。この時、歴代藩主の通字も保科家の「正」から「容」に改められることになった。家格は親藩・御家門で江戸城内での席次は溜間詰、家紋は会津葵、旗印は漢字1文字で「會」である。
官位・官職は従四位下、侍従、肥後守よりはじまり、最高位は正四位下、左近衛権中将までのぼる者もいた。幕末の京都守護職の容保は参議までのぼった。

003_松平肥後守上屋敷.jpg

アクセス:東京メトロ大手町駅又は二重橋前駅下車
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002_大目付仙石伯耆守屋敷跡 [旗本・御家人屋敷]

吉良邸に討ち入りを終え泉岳寺に向かう赤穂浪士の一行から別れた吉田忠左衛門と富森助右衛門が自首した仙石久尚の屋敷がここ。現在の日本消防会館辺りで1,460坪余の広さがある。

【仙石久尚】
 承応元年8月19日(1652年9月21日)~享保20年7月23日(1735年9月9日)
 従五位下 丹波守 伯耆守 2,000石
 奥番小姓~中奥小姓~小姓組組頭~大目付~小姓組組頭~御留守居役
002_仙石伯耆守屋敷.jpg

アクセス:東京メトロ虎ノ門下車
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